方法としての森有正


方法としての森有正 その2
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月日は流れ、 01/05/03(木)02:01:12
月日は流れ、思いが残る。
時に洗われた思い。
砂に埋もれた貝殻、遺骨のようにだろうか。
けれども、違うのだ。
すべての時間が生きている。
この只中において思う。
手の中のものはすべてこぼれてしまい、
書き記す言葉も、つぶやきすらも残らない。
全時間が、ただ今、このときを示す。
意を決する時のごとく、
なにひとつ殊更でさえなく、
この時が切り出される。
己れ、私、自分、とらえがたない。
事物の感触。
見回しているという意識。
それを呼ぶための大切な言葉を失ったのだという自覚。
時の重荷を、いま降ろしたのだ。
忘れるという以上に、切り離したのだ。
なにを、そして誰を、何事を気にかけよう。
言葉は流れ、思いは残る。
ときに清められた思い、
まことに愛は不可思議であると思う。
ただここにいるのである。
ここまで来るのに、ここまでの人生を必要とするということ、
ぼくはいま君を愛するところに来たのだ。

歌うように、そして、すすり泣くかのように。 01/02/02(金)03:47:40
ひとつのつぶやき、思いはいつも語りかける相手を持たない言葉のようだ。
相手がいる。
厳しく問い返してくる。あるいは、まったく無視される。
言葉は正しくひとつの行為である。
それが、「言う」ということだ。
書くことは、ひとつの未決定の状態にある。
それはまだ、そして、いつ、言葉となる言葉なのだろう。
歌うように、そして、すすり泣くかのように。
思いは、しかし、生きているのだ。
たとえ、その命尽き果てるとも、
思いは残る。
歌うように、そして、すすり泣くかのように。
思いは、常に、言葉なのだ。


心のおもむく方向に向かっていつわらないこと。 01/01/06(土)22:52:33
すること、しないこと。しなければならないこと、したいこと。心のおもむく方向に向かっていつわらないこと。
自分自身ということ。明証性をどこに求めるのか。誰に向かってか。
愛する人に向かって、言葉も行為も照らし出されるのである。すると、愛はもっとも厳格な掟と変わらないことになる。そのとおり、愛はもっとも厳格な掟と何一つ変わらないのである。それをしようとすることが、それをするよりほかないことである、ここまではよい。それをするのは、したいからでも、しなければならないからでもない、ここまで来るとどうだろう。
愛はもっとも自由にはばたくことである。ここには厳格な掟など何一つない。すると、あれは、いまし方の思いは何か迷宮に似ている。閉じ込められるのは、囚われたもののみである。発露するものはそこにはない。
心のおもむく方向に向かっていつわらないこと。このことは、誓っていうが、自分自身とは何の関係もないのである。

かえりみること。 00/08/21(月)21:39:37
なにもかも根こそぎ奪われる経験があり、そのあとに残った言葉がある。言葉の純度をこのように高めていく方法、それは、任意になにごとかを取り上げて考え進める方法とどのように異なるのだろうか。

認識―4月3日の言葉 00/08/16(水)04:19:48
「言葉もない。そういう時間をこのところずっと過ごしてきました。どうしたらいいのかわからないということ、そして、このとおりするより他にはないということ。思いはあり、少しも過剰ではなく、ただ表現を得ていないということ。もはや、なのかも知れない。その思いは眠るのであろう。言葉はただ暮らしを刻んでいく。わたくしが知っていることは、何もかもわたくしの力には及ばないということ。こうしてわたくしは小さくなるのである。―4月3日」
ここにある認識をどのように言えば良いのだろう。まぎれもない絶望である。少しも重苦しくないのは、すべてを受け止めきっているからであろうか。違う。全部崩れて行くことを知っているからである。どのように言えば良いのだろうか。なにひとつ残らないということ。そこのところに踏みとどまり、なすところのすべてをこなしていくこと。結果は、なにひとつ残らない。そこのところに踏みとどまること。行為は完成するのではなく、ただ終わるだけである。すると、一つひとつ仕上げて行くこととは、ほかでもない、ただすることである。
「愛の発生と天体」で取り上げた主題がここで際立って来る。「魂の出来事としての人間」、それはなんの謂いなのであろうか。なにをしているか、だけが、すべてが抜け落ちた後に残るのである。
コギト エルゴ スム。思うところのすべてが残るのであろうか。思うところのことごとくが残らぬのである。ゆえに、思う。我れ有り、とであろうか。ただ思う。ことごとく尽き果てるがゆえに、ただ思うのである。この思いは愛である。なんびとも感触し得ない。それは、到るところ徹底している。だからこそ、それは、拒むことに最も近いのである。


持続するもの。 00/07/30(日)06:45:43
始まりの意識に基づくのではない。それは、すでにある。そのことを深く受け容れていること。生きるひろがりと同様、ここにある持続は、なにがしか塊のようである。このかたまりを切り出していくこと。このたとえで言えば、生きることは労苦でもなければ創作でもない。なにかをする。なにをするのか。そこのところを切り出していくのである。ひとりのひとは、なにか造形物のようにしてあるのではない。そのひとの為すことのすべてを通してそこにあるのである。その為すことは、なにがなし模倣のようである。何を模倣するのか。あるべきことのあるべきあり方を、であり、あるがままのあたりまえのあり方を、である。このことを、どのような造形をもって表現し得ようか。しかも、そのひとは、たぐい稀な姿形をもってそこに存在するのである。呼吸のように、そのひとが、そこに息づいているのである。わたしは、いつから呼吸を始め、いつ呼吸を終える、このような物言いを為し得ない。ありありとしてあるもの、この世界と同じ重みを持つこのひと、わたくしはそのひとを知っている。これが愛である。いかなる欲望も執着も、むしろ焚き木のようなものではないだろうか。この愛を照らす以上のことを、どうして為し得ようか。けれども、それは隠すのである。この世で、ただひとつ、愛にかなう行ないのみがそれを証すのである。愛にかなう、どうしてそれが為し得よう。
それは、ひとの世の行ないではないのである。わたくしは、希望があると言っているのではない、絶望せよと言っているのである。わたくしは、わたくしが今いる、この持場を離れない。ここにどのような希望があり得るだろうか。いかなる特権からもほど遠いこと。それはむしろ、幸いなことではないだろうか。為すことのすべてが閉じられているのではない。ほとんど為すすべがない、ただ、それだけなのである。わたくしは、為すべきこと、あるべきあり方があるのであると思う。

生きるひろがり。 00/07/27(木)22:34:18
ひとつの、あるいは幾つもの出会いを通してもたらされる生きるひろがり。有用性の中にでは必ずしもなく、何をするということもなくとも、そこにいるということ。そのことの中にある肯い。誰かがどこかにいるのであろうかという感覚を安堵のうちにおいて承認すること。恐怖が入りこむことのない、このひろがり。具体的にこの今をこのように定義すること。このひろがりは、言うまでもなく、永遠のうちにおいてある。

言葉がない! 00/07/05(水)20:52:13
ただしく言うことが出来、ただしく思うことが出来ているなら幸いである。ただしく思うことが出来る。どういう行ないだろうか。すでに本心という自覚にすら異心がある。二心とないこと。ただしく言うことが出来、ただしく思うことが出来ているなら幸いである。

徳について。 00/05/21(日)10:12:34
愛すること、信ずること、恐れぬこと。さしあたり、これらのことを努めて守るようにしている。他のいかなる物事より、これらのことを優先するようにしている。
何かしたいことも、何かしなければならないことも、決してこれらのことに先んずることのないように心がけている。
自分の才能を発揮する? 一番得体の知れないのが自分である。したがって、隠さぬことは大事である。いま、なにをするのかがわかり、そのとおりできる。ただちにすることはそこのところである。愛すること、信ずること、恐れぬこと。
なにをしたら良いか分からないということがどうしてあり得よう。幾日もいくにちも思い屈していたのである。なにをしていたというのだろう。傷つけるのではないか、失うのではないか、嫌われるのではないか、なにもかも恐れていたのである。そして、その恐れは、おのずと道を譲ったのである。なにごとかを克服しなければならなかったのでは少しもない。恐れは恐れ自身を維持し得なかったのである。これをつまらないことと思うだろうか。些細なことである。そして、小さなことがうずきのように悩ませるとしたら、本当に真剣にそのことに悩むのが良いのである。

生きることと愛すること。 00/05/19(金)10:40:44
元来、ひとつであるところのこととが別様に表現される。そのことは良い。けれども、思慮のうちにおいてではなく、現にしていることにおいて別々である、それでも良いだろうか。生きることと愛することとは、表現において別であり、していることにおいて一つである、こう言って良いだろうか。
このことすら、すぐれて行為である、こう言って良いと思う。それは、していることの中に表現を持つ行為であり、その表現はしていることをどのようにあらしめるのだろうか。過剰でないとしたら、それはしていることを落ち着かせるのに役立つに違いない。していることを、しているそのままのところで満たすのである。そのままのところで満たすのだから、例えば、そっと吹く風が木の葉をゆする時、この世界が凍りついた観念によっているのではないこと、そして、あれ、なにをしていたのかと思いを区切るように人は足を止めた時のように立ち去るのである。深く愛することと一定の歩行とは良く似たところがある。どちらも左右されるところが少ない。たゆみなく、しかも、とどまるところもない。一身をこうした歩行のうちに展開すること。方法といってこれより他にはない。誰を愛するかはその人のうちにある。知る知らぬの界隈にはない。困難を窮めるのは堅く守ることであることに古今変わりはない。守ることそのことのうちに守られるものが正しく宿るのである。なにを守るかがではない。してみると、守ることは本当は生むことである、生み出すことである。なにを生み出すかが問題ではない。どう生み出すかはさらに問題ではない。わたくしはなにを言おうとしているのか。誰が死ぬかは問題ではない。どう死ぬかはさらにまったく問題ではない。生死はどこまでも己にとって大自然である。他ではない。他でもない。まったくどうしようもないそこのところ。そこのところにすら拘泥してはいけないのである。
2000年5月19日。誠識。

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