行動し、考えるためのヒントについて

その3


 西暦2011年、平成23年3月11日に、東北地方太平洋沖で、大規模地震が発生しました。
 そのときから今に至るまでの経過と行動を振り返って、これからからどうするかを突き詰めて考えてみました。
 基本的な考え方は、被災者が生活を再建しようとするとき、食い扶持を稼ぐための雇用が確保されている社会を維持していくためには どうしたらよいのかというところにあります。


 16年前の阪神大震災からこの方、いつしかボランティアは、行政にとって、非正規雇用者以下の存在のようにみなされている。



 まず、次の発言を取り上げてみたい。今、この時代を覆っている典型的な意識の桎梏である。

 「忘れてならないのは、ボランティアは食料や衣服、就寝場所などすべてを自前で確保する『自己完結型』が鉄則ということだ」
リンク  ボランティア 善意が生きる場を作りたい(3月28日付・読売社説)

   (記事の内容)

 素朴な疑問なんだが、いつからこれが「鉄則」なんだろう。
 そんなに古い話ではないと思う。私は田舎住まいだが、どこかで災害があれば駆けつける。一段落して、周囲の人々の炊き出しがある。
おおむね、その属する地域の人々や親類などが用意するのだが、取るものもとりあえず駆けつけて手助けしてくれた人に、「自己完結型」などと いうへちまもない。握り飯なりが振舞われる。「鉄則」というのはこのあたりを言うのではないだろうか?


 実地に経験したから言うのだが、3月21日午前8時から22日午前0時までの16時間、そのうち石巻方面にいた5時間ほどを除いて、 ほぼ11時間、私は東北自動車道にいた。トイレ休憩などがトータル2時間として、往きに4時間帰りに5時間、およそ9時間ほどを、 東北自動車道を走っていた。トップスピードは 70~80km/h ほどだったから、平均スピードはさらに遅い。この行程の半分ほどを、 ただ一台で走っていた。残りの半分は、後ろから次第に近づいてきて、追い越され、前方の視界から消える。しばらく一人で走り続けると、 後方からまた・・・、この繰り返しだった。
 22日の午前1時に自宅に戻り、休息の後、疲れも取れてから、体をよじり切られるような苦痛が感じられてきた。比喩でよい。 東北自動車道が東北地方の大動脈であり、私の車が一滴の血液だとしたら、その仮定が私を苦しめたからだ。この状況を知ってなお、 なすすべないわが身を苛んだからだ。24日に一般車両の通行が可能になったことを知って、おのずとそれは治まった。


 行動しなければ分からない。その先の角を曲がらなければ見えてこない光景というものがある。そしてその上で言うのだが、 この、「自己完結型」とやらが、今この国の人々を萎縮させ、自縄自縛に陥らせ、とどまるところを知らない袋小路に追い込んでいる 最大の害悪の出どころなのだ。

 顔を上げよう。前を向こう。そしてそのおもむくところに真っ直ぐに向かおう。


 募金は、身動きできぬところにあるなら別だが、善意の表明ではあっても、行為の留保に等しいところがある。

リンク  過去最高の義援金 配分難しく - 国内(3月27日(日)産経新聞)

   (記事の内容)

リンク  日赤への義援金594億円…配分には時間(毎日新聞2011年3月30日)

   (記事の内容)


 どうしたらいいのかは、常にその時自分自身で答えを出さなければならない問いかけなのだが、 ともに同じところにいると感じるのであれば、誰かしらが面てを上げ、しっかり前を向こうとするとき、 ここにつづるいくつかの言葉が、行動し、考えるヒントになればと思う。




優先と独占と

道路を車で走っていて、サイレン音が聞こえてくれば、どの方角からかを確認しながら徐行し、車を脇に寄せる。これが優先で、 誰も疑問は持たないし、異存もない。

 では、独占とは?

 人に聞こうにも聞きようがなく、調べようにも調べようがないのだが、 今回の災害対策は、官僚と災害専門家が事前に策定した対策計画にのっとり、 地震発生とともに発動し、それらの官僚や専門家の主導によって今に至っているのだと思う。 個々の政治家が、これらの対策の全容を把握し、逐一指示を出しているとは到底思えない。 官邸すら、例外ではない。
 では、その対策は妥当かどうか?

 たたき台になったのは、阪神大震災や中越地震などだと思うが、それらと決定的に異なるところがある。 今回の災害は、地震そのものによる被害より圧倒的に津波によるものであることは明らかだが、 事前の対策がそれを想定していたとは到底思えない。
 だとしたら、その対策はその最初から当を得ていなかったことになる。どこがだろうか?

 地震による建物の倒壊と違い、津波の場合は、助かると助からないとの差は歴然としている。 その違いは、紙一重の差であっても、助かる人は助かっていたのだ。次々に負傷者が運び込まれる、そういう事態は起こらなかった。 地震発生直後に被災地に入った医療チームのところにほとんど患者が来なかったのは、そういうわけがあったのだろう。

 それどころか、まったく予想もつかない新たな危機が到来したのが発覚した。






震災対策ではなく、原子力行政についての記事だが、内部からの証言として示唆に富む。
リンク  佐藤栄佐久・前福島県知事が告発 「国民を欺いた国の責任をただせ」(週刊朝日3月30日配信)

   (記事の内容)



 ボランティアセンター???

リンク 県外ボランティア「まだ無理」岩手(毎日新聞 3月31日(木)19時58分)

   (記事の内容)

 この記事を鵜呑みにするほどの愚鈍な神経はさすがに私にはない。  いたるところにあるボランティアセンターとやらは、はっきり言えば、ボランティアとは縁もゆかりもない。なにしろそれは震災前から用意されていたのだから。
 疑問だろうか?

 本物の、こう断りを入れなければならない悲劇が今回の大悲劇にはいたるところ付きまとっている。 本物のボランティアであれば、手が足りなくなったら、今受け付けに来た初対面の者でも、これは使えると見れば、
「ちょっと、あんた、こっち側へ来て。ここの受付君に任せた。頼む」 これだけで済む。
 では、なぜこれが出来ないか?身分制度が邪魔をしているからである。  彼は、まかり間違ってもボランティアではない。給料も、ボーナスも、退職金も、さらに年金も保証されてそこにいるのである。 超過勤務手当てだって期待できる。したがって、この地位をやすやすと取って代わってもらっては困るのである。 もとより地元住民のためなら仕方がない。だが、よそから来たもののために、これ以上忙しくなってはたまらないのである。
 誰が、これを非難できようか?

 非難すまいとは思うが、ボランティアの名は騙らないで欲しい。もとより「ボランティア」と、「センター」とは相容れない。 ボランティアセンターとは、形容矛盾なのだよ、お役人さん。


 "deracinement" (根こそぎ引き抜かれること)



 今回、こういう活動が、きっぱり切り捨てられている。
 今回の当初の行動計画を作成したもの・それを支持するものにとって、こういう活動は邪魔な活動以外のなにものでもないのだろう。
リンク  〈伝えたい―阪神から〉型はまらぬ支援を

   (記事の内容)






地縁

 人のつながりのある地域、また、その地域における人のつながり。ここでは、さしあたり、これを地縁と呼ぶことにしよう。 地縁がしっかり息づいているところなど、もうどこにもないのだから、地縁をあてにするとしたら、再構築というよりは、新築するより他はないのだろう。

 復興の、その先にあるところへ思いをいたすこと。そこのところからして、今を照らしてみること。

 巨費を投じて安閑としているよりは、1円もかけずに避難訓練を徹底したほうが生存率は格段に向上する。 これは今回の悲劇から得られた貴重な教訓だ。そして、この教訓が困る手合いが必ずいる。


 「地縁がしっかり息づいているところはどこにもない」と書いたのだが、これは即座に改めよう。
リンク 苦悩の内陸避難 想定9500人、移動1割(毎日新聞4月4日0時4分)

   (記事の内容)



無縁の人から有縁の人へ






中止を中止すること

 災害はまだ始まったばかりで、過ぎ去ったわけではない。
 先へ行けばもっと悪くなることは分かっているが、どの程度かは分からない。3月末のこれが本当の状況だ。 あらゆる予定が中止や延期に追い込まれているが、本当にそれでいいのか? 先延ばしすれば、もっと悪い状況に追い込まれることは考えられないのか?
 予定を前倒ししてでも、こなせるうちに、こなそうという気概はないのだろうか? この夏のことを言っている。そして、夏というのは、予定された期間を言うのではない。 5月ですら夏日という日があることもあれば、8月ですら涼しい年もある。 先延ばしした予定が、不時の停電に直撃される可能性はたえて考えられないのか?
 横並びで人にならえば、やり過ごせる、もはやそんなものはない、そこのところから出発しようではないか?

 プロ野球のセリーグが、パリーグにならって開幕日を大幅に先送りした。 世はこぞって賞賛を送っているが、先のことは何も考えていないに等しい無計画がそれほど賞賛に値することなのだろうか? それとも先のことはすべて予定通りになると確信しているのだろうか?
 4月開講の授業が、5月連休明けに延期になるという連絡が私のところに届いた。 このしのぎよい季節を、むざむざ無聊に過ごせという神経が分からない。夏の試練をあえてためそうというのだろうか?

 おそらく、夏時間とやらを言い出す輩が現れることだろうが、時計をいじって済ませられるような次元の話ではない。
 いっそ、一日の始業を、2、3時間前倒しして朝6時の始業とし、午後の1時か2時には放免されるぐらいの徹底でなければ 今年は持たないだろう。当然、朝の2時、3時に始発電車を動かしてもらい、代わりに終電車は夜の9時、10時までで良いだろう。
 そのまま家に帰ってエアコンではせっかくの調整も無意味だから、電車やデパート、図書館、映画館、 公共性があり、人の集まるところは空調を効かせてもらい、日中、家庭やオフィスは極力控えてもらう。 関東中心だが、申し訳なくとも、時間合わせは全国一律に実施しなければ、仕事上不都合に違いない。 暑くなってきてからやろうとしても間に合うまいから、今のうちから予行する必要がある。 不都合を出し切ってから暑くなるのであれば、なんとかこの夏を乗り切れるのではないだろうか。




原発危機の背後にあるもの

 福島第一原子力発電所で起こったこと、これを正確になんと言ったらいいのだろう?巨大地震の後の予想をはるかに超えた津波のために、 何重にも備えられていたバックアップ態勢がことごとく無力化され、コントロールを失った。これを単なる事故と言えるだろうか?

 運転上の過失から引き起こされたスリーマイルやチェルノブイリの場合とは決定的に異なるものがある。それはどこか? 想定を超える津波に対する対策を怠ったところにある。それはなぜか?
 稼動を急ぐために、津波対策より地震対策を優先したからである。 福島の原発は、そっくりそのまま東京の需要を満たすために存在している。 この巨大な大食漢の東京こそが、今回の危機を招いた直接の原因である。

 設備の当事者である東電に対して、あらゆる非難が集中しているが、それは妥当だろうか? 少なくとも、ことごとくの都民に東電をそしる資格はない。近郊都民もしかりであり、出身は全国各地であれ、 活動の拠点が東京である、実質都民と言える国会議員に東電を糾弾する資格はない。 東京に集中する、新聞・テレビ、その他のマスメディアもこの框から逃れることは出来ない。

 この大飯食らいの東京は、もともとこのように肥大化していたのだろうか?

 そうではない。 あの、16年前の阪神大震災の後、首都である東京のあり方について、真剣に議論され、かなり煮詰まったプランさえ出来上がっていた。 その流れを一気に後退させたものは誰か?本当に責めを負わなければならないのはその者たちである。






どのように克服するのか?

 地域が地域を支援する仕組みを作ること。

 支援する側の地域においては、とりもなおさず、予測される近時の計画停電に対する地域ぐるみの取り組みの強力な対策の母体になる。
 最強の、と言ってよい。

 支援される側の地域にとっては、相手の見える支援であることが重要である。

 お互いに知り合う支援の関係によって、何より継続性が期待できる。





みんながボランティア

 地域が地域を支援する仕組みを作るには、みんながボランティアになるのがよい。どういうことだろうか?






地縁が日本を救う












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