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鑑真

鑑真和上像
鑑真(がんじん、旧字体:鑑眞、中国語繁字体:鑒眞、中国語簡字体:鉴真、Jiàn zhēn
688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。
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鑒真

普照
普照(ふしょう、生没年不詳)は、奈良時代の僧。母は白猪与呂志(しらいのよろし)の娘。
概要 [編集]
当初興福寺に住し、天平5年(733年)出家者に正しい戒を授けるための伝戒師を招請するため栄叡とともに唐に渡った。洛陽大福先寺で具足戒を授けられ、道璿に来日を促した。唐に滞在すること10年目にして揚州大明寺の鑑真に拝謁して日本への渡航を要請し、天平勝宝6年(754年)鑑真に従って日本へ戻った後、東大寺に住し、天平宝字3年(759年)には旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上した。その後、奈良西大寺の大鎮を勤めた。しかし、亡くなった年は不明。
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法進
法進(ほうしん・ほっしん、はっしん。景龍3年(709年)- 宝亀9年9月29日(778年10月23日))は、奈良時代唐から渡来した僧。出身は唐申州。
揚州白塔寺に住し、鑑真に師事して戒律・天台教学を学び、鑑真に従って754年(天平勝宝6年)苦難を乗り越えて日本へ渡ってきた。鑑真が東大寺に戒壇院を創立する際には彼を助けた。律師・少僧都・大僧都を歴任し、763年(天平宝字7年)には戒壇院の初代戒和上に就任している。これに関して沙弥十戒並威儀経の疏を著している。教学上の知識が豊富で、律・天台の講演に尽力した。
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如宝
如宝(にょほう、天平3年(731年)[要出典]- 弘仁6年1月7日(815年2月19日))は、奈良時代から平安時代にかけての律宗の渡来僧。出身地については不詳であるが、一説に、西域のソグド人。安如保・如保とも書かれる。
孤児であったが、唐の律宗の僧鑑真に拾われて師事し、鑑真とともに754年(天平勝宝6年)日本へ来朝し、東大寺戒壇院で受戒している。一時下野薬師寺に住したこともあるが、鑑真の死によりその委嘱によって唐招提寺に戻ってそこに住し、伽藍の造営と律宗の高揚に尽力した。797年(延暦16年)に律師、806年(大同元年)に少僧都に任じられた。「日本後紀」の卒伝によれば、戒律を厳守し、大国の風格があったという。


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道忠
道忠(どうちゅう)は、奈良時代末期・平安時代初期の律宗の僧侶。
鑑真が唐から来日後、彼に師事して具足戒を受けて律宗を学んだ。後に東国を回って教えを広め、慈光寺を創建した。人々に菩薩戒を授けて回ったために、人々は彼を菩薩と呼んで尊んだ。後に彼から菩薩戒を受けた円澄が最澄の門人となったことから両者の間に交流に生まれ、最澄が天台宗を広めるために広く経典の書写を呼びかけた際に仏法発展のために支援を行ったという。
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義淵
義淵・『集古十種』より
義淵(ぎえん・ぎいん、皇極天皇2年(643年) - 神亀5年10月20日(728年11月29日))は、奈良時代の法相宗の僧。『続日本紀』[1]によると俗姓は市往氏[2]であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。
父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(=岡寺)などの5ヶ龍寺を創建した。699年(文武天皇3年)学行褒賞で稲1万束を賜り、703年(大宝3年)に僧正に任じられた。元正・聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連の姓を賜り兄弟に仕えることを許された、とある。
『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁などがおり、道慈・道鏡なども義淵の門下であったという。
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良弁
師 義淵
良弁(ろうべん、りょうべん[1]持統天皇3年(689年) - 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))[2]は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山[3]。通称を金鐘行者といった。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇の勅により、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定。天平17年(745年)に律師となる[1]。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績[3][2]により東大寺の初代別当となった[4]。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階を改めるよう奏上した。
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道鏡
700年 - 772年5月13日
道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の法相宗の僧。物部氏の一族の弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子[1]。俗姓が弓削連であることから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。兄弟に弓削浄人。天智天皇の皇子である施基皇子の子とする異説もある[2]。
大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂は、偽って豊前国(大分県)の宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝え、道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱くが、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲4年(770年)に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて土佐国に配流されている。(以上、続日本紀)
庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。




東大寺 -wiki-

唐招提寺 -wiki-



唐大和上東征伝・船の記録



勝道
735年(天平7年)4月21日 - 817年(弘仁8年)3月1日
勝道(しょうどう、735年(天平7年)4月21日 - 817年(弘仁8年)3月1日)は日本の僧。勝道上人と称されることが多い。俗姓は若田氏。幼名は藤糸丸。
少年期から山林修行を行い、762年(天平宝字6年)下野薬師寺の如意僧都に師事して得度受戒した。765年(天平神護元年)には出流山満願寺(栃木市)を開創している。782年(延暦元年)日光山(ニコウ山=二荒山、ふたらさん、男体山)の開山を志し入山、四本龍寺(現輪王寺)を建てる。二荒山神社や輪王寺などにつながる日光山繁栄の源を作った。784年(延暦3年)には中禅寺湖中禅寺を開いた。
延暦年間(782年-806年)に上野国講師に任じられ、807年(大同2年)の旱魃に際しては日光山で祈雨を修法し、その功により伝灯法師位を授けられた。816年(弘仁7年)4月、日光山山頂に三社権現の社を建立。その翌年、83歳で死去。
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円仁
本来の表記は「圓仁」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
794年 - 864年
諡号 慈覚大師
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
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入唐求法巡礼行記 -wiki-

入唐求法巡礼行記 -google-







唐大和上東征伝・船の記録