「森有正ノート」

 一人の人物について、充分に語ることが出来るようになってこれを書いているとは思わない。また、どうしてもこれだけは書いておかなければ、という衝迫に突き動かされてこれを書いているわけではまったくない。今、ようやく、書いておいたほうがよいという気になった、その通りにしているのである。

 一字一句を書き写しながら読む書物があり、その書物の作者が森有正であった。わたくしがしていたのは、その人に習おうとしていたのである。ほかには何もなかった。この言い方はとてもまずい。けれども、このように言う、ほかには何もなかった。

 ここからどのような一歩が、そして、今に至ったのである。努めて読むところから、いつか遠ざかった。書物を手にすることも、間遠になった。忘れるものは、すっかり忘れた。なんと言ったらいいのだろう。何々がなくても生きていける、という言い方には少し嘘がある。思いつめてきた日々の、どう言ったらいいのだろう、厚みがある。と思う。

一、「経験と思想」を読む

過ぎ去った日々と来るべき日々との間に
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