行動し、考えるためのヒントについて

その2


 西暦2011年、平成23年3月11日に、東北地方太平洋沖で、大規模地震が発生しました。
 そのときから今に至るまでの経過と行動を振り返って、これからからどうするかを突き詰めて考えてみました。
 基本的な考え方は、被災者が生活を再建しようとするとき、食い扶持を稼ぐための雇用が確保されている社会を維持していくためには どうしたらよいのかというところにあります。


 3月16日夜、薬師寺の実家で弟と顔を合わせた際、弟が、「 I 君と連絡が取れないんだ。今、石巻の病院にいて、その病院は海べりにあるから おそらくダメだったんじゃないか」と言う。
「 I 君って、あの栃木のか?」と聞く。そうだと言う。
「2月に宇都宮でばったり会ったばかりだけど、あの津波の様子じゃ・・・」とつぶやく。
その夜はそのまま別れる。

 17日、朝からネットで、石巻市立病院についての情報を探す。Yahoo 知恵袋で石巻市立病院に勤務していた人を尋ねる質問を見つける。 回答のリンクをたどっていくうちに、google 消息情報というサイトに行き当たる。ものは試しと思い、 I 君の名前を入力してみる。
 リンク Google person Finder (消息情報)
 なんと、あっさり彼の消息が分かる。
 「電話でお話できました。やはり、医薬品の不足を訴えておられました。ご支援をお願いいたします。」とある。
その消息を書き込みした K 氏に早速メールを送る。夜、 K 氏から連絡がある。
 今日、本人から連絡があったのだと言う。
 「震災時は乳児検診に行かれていて、外におられたそうです。道を間違えたら危なかったとおっしゃっていました。 今は石巻中学校で身寄りのない要介護のご老人6人と一緒におられるそうです。まだ帰ることはできないとのことでした」 とのこと。
 こちらから連絡は取れないため、どういう状況か詳しくは分からない。お礼のメールを送る。

18日、メールにあった、「身寄りのない要介護のご老人6人と一緒におられるそうです」という点が気になったので、 引取り先が見つけられないかと思い、社会福祉協議会の近くに行く機会があった際、問い合わせてみる。 直ぐに市の高齢者福祉のほうに問い合わせてくれたが、担当者が県の災害対策に問い合わせたところ、 「県に避難してきた方の場合なら対応できるが、それ以外は無理です」とのこと。もっともな回答である。
  I 君の情報については、まだ、ほとんど知られていないものと思い、呼びかけのメールを作成したが、 在校生のメールアドレスは誰も知らない。そこで、先々週卒業したばかりの四国の M さんにメールを送って、 在校生に転送していただけるようお願いする。

19日、朝、 S 君あてにメールを送る。昨夜、 M さんに送ったメールを添付し、S君の知り合いに転送してもらうように頼む。
 昼過ぎ、 S 君から返信あり、「大学の卒業生のメーリングリストを通して組織された大学同窓会 東日本大震災支援プロジェクト対策本部 に転送しました」との連絡ある。
 いつでも遠出が出来るよう、いきつけの整備屋さんに点検をお願いする。「これで行くんですか」と言われるが、「16年前の神戸行きのときは、 廃車寸前のトラックで2度、これと同じタイプの車で1度行ったじゃないか」と言ってやる。オイル交換する間、提供してもらった埃だらけの燃料用のポリタンクを水洗いする。
 夜、 I 君の同期生の T 氏という方からメールで連絡がある。
 「何か支援したいとは思うのですが、宅配便などを使って内木様に届けたりすれば良いのか、迷っています。 当方としては、町の薬局で売っているようなものを購入して持っていっていただくくらいしか考えつかないのですが・・」と言っていただける。
 折り返し直ぐに、「今回は、彼とコンタクトを取ることが一番の目的です。 彼の状況がどうなのか? 今後どうするつもりなのか?   T 様をはじめ、大学の関係者の方々に彼が何を期待するのか? これらをしっかり把握して彼を支援してくれる方々に伝えることが、 当面の私の役目だと思っています。 出発の準備はできていますので、 T 様の荷物が届き次第、現地に赴きます」と伝えて、 支援をお願いする。直ぐに出発の準備に取り掛かる。

20日、ある程度準備ができたので、高速道路の通行許可があれば速く行けると思い下野警察署に行く。これまでのいきさつが分かるように、 K 氏や T 氏と交わしたメールをプリントアウトして持っていく。受け付けた警官が、電話で問い合わせしているところへ若い警官が割り込んできて、 「要するに、個人で引き受けて行くんじゃないか」と言い出す。最初から許可出来ないといった言い振りである。 「そんなのを許可したら、現地が困る」と言い張る。(大嘘である。今回、現地へ行って、その仮定がまったくの虚構であることを身をもって確認してきた。)
 もとより一般道を行くつもりであったので、それ以上取り合わずに、下野署を出る。
 帰り道、上三川の友人の Y さんの家に寄る。農業機械用に備蓄してある軽油の提供を受けるためである。 彼の親戚の家に回って、ドラム缶からポリタンクに軽油を移す。彼は、彼自身が原発から戻ってきたことを、その家の人にまだ知らせていなっかたので驚かれる。 車は満タン、軽油のポリタンクは都合6本、これで不安なく無給油で行って帰ってくる準備が整う。
  T 氏からの荷物は、通常だと、明日の10時過ぎに届くと思われるので、念のために宅配便の営業所に出向き、 トラック便が到着次第、携帯電話のほうに連絡してくれるようにメモを置いて頼んでくる。
 夜になって、ひと段落してから、朝のうちに届いていた四国の M さんからのメールに返信する。 無事国家試験に合格したとのこと、祝意を伝える。文面からすると、地元に帰り着くまで苦労したようである。
 普段はパン食しないけれど、遠出するときには、サンドイッチを作って行くのを習慣にしていたので、 さあ行くぞ、という気持ちをかき立てるために、サンドイッチ作りに取り掛かる。これで途中の食事時間を短縮できる。

21日、午前2時ごろ、一通り準備ができたので、睡眠を取る前にメールの最終チェックをする。大学の県人会の S 氏よりメールが来ている。 「 I 先生の情報を知りました。 大学県人会として取り敢えず10万円を送金させて頂き,支援物資の購入や 事務費に使って頂きたいと思います。 他に個人的な金銭的支援を申し出ている会員もおりますので,振込先など教えて下さい。 更なる現地の情報などもお知らせ頂けますようお願い致します」とある。
 早速、「こう考えています」と題してメールを送る。

(送信したメールの内容)


 午前4時ごろ、 S 氏から携帯に電話があり、メールを送ったから確認するようにとのこと。
 高速道路通行の件について説明してあるとのこと。

 急いでメールをチェックしてみる。
県医師会からの「東北自動車道の『通行証』の取得方法について」のメールが転送してあり、
直ぐにプリントアウト出来るようにする。
また、これまでの経緯を大学のほうに伝えておくとのこと。

 仮積みしてあった燃料タンクを転倒しないよう、前後の座席の間に挟むように工夫する。
 そうこうするうちに、あたりは明るくなってくる。時間をチェックすると、5時半、仮眠をとるには中途半端な時間である。 準備が完全に整ったこともあり、早く届いていれば、荷受しようと宅配便の営業所に向かう。
 何人か作業をしている人がいるので、東京からの荷物か届いていないか尋ねる。すると、トラックが来るのは7時ぐらいではないかと言う。
 雨がほんの少し降り始める。
 出発前にもう一度トイレに行ってこようと自宅にいったん戻り、ついでに待ち時間のときのために語学の本を持参する。
 実家に立ち寄り、父に一言。「行ってきます」と声をかける。

 宅配便の営業所に戻ると直ぐに、作業している人が、この荷物ではないかと持ってくる。差出人・荷受人を確認し、受け取る。
 午前7時、出発。

 そのまま新4号国道を北上し、8時近く、宇都宮インターチェンジに着く。
  S 氏の話では、警察は関係ないとのことなので、人影を探して、ゲートからゲートへ渡り歩く。雨が降り出し、東京方面への車もあり、 なかなかスリリングである。ようやく人を見つけて尋ねると、こちらでは関係なく、あそこにいる警察の方ではないかと言う。その指すほうを見ると、 福島方面に入る手前にパトカーが1台、フロントをこちらに向けて停車している。
 他の車に気遣いながらパトカーに近づくと、車検証と免許証を持ってきてくださいとのこと、指示されたとおり、いったん車に戻り、 車検証と免許証、それに S 氏から来たメールを印刷したものを提示すると、直ぐに通行証を作成してくれる。

 8時少し過ぎ、東北自動車道に入る。まもなく、矢板でいったん下りるよう指示される。再度、高速道に入るよう誘導される。 許可証の有無をチェックしているようである。
 その後は順調に走れる。
 順調すぎて、直ちに眠気が襲ってくる。仮眠をとらなかったこともあり、車が古いので、80kmを超えないようにスピードを加減しているせいか 余計に眠気が我慢できない。走り出したばかりだが、幸い他に走っている車はないので恐怖感はない。他の車は本当にいない。
 高速で怖いのは、前に止まっている車や徐行している車にスピードを出したまま追突することだが、前に車がいないのでその心配はない。 せいぜいどちらかにより過ぎて擦るくらいだが、急ハンドルは切らないと決めているので、大事はないと腹を据える。
 一般走行車線を走っているのだが、ふと気がつくと追い越し車線を走っている。そんなことが2、3度あった。
 しばらく走ると、さすがに他の車も目にする。後ろから少しずつ近づいてきては追い越される。これの繰り返しである。それもごくたまにである。
 仙台を過ぎるまでの間に、追い越した車は、自衛隊の牽引車両1台のほかは、 PA 付近での2、3台きりであり、帰りは1台も追い越していない。
 福島に入ってからは、つとめて PA や SA には停車するようにした。安積 PA に停車したとき、福岡県警のパトカーが2台止まっていたので、 どのくらいかかりました?と尋ねたら、「1日半です」と答えたので、思わず、ご苦労さまですと声をかける。トランクを開けたところを目にしたが、 ドサっと荷物がいくつかあふれてこぼれ落ちた。
 安達太良 SA では炊き出しがあって、おにぎり1個をいただいた。ここの道路案内で、石巻までの道順を尋ねる。
 菅谷ジャンクションで東北道を降りて、仙台北部道路から三陸道へ入るといいと教えられる。
 国見SAまでは、トイレの水が使えたが、それ以降は使えなかった。

 順調に走っていると、突然、携帯に電話が入る。知らない人からである。挨拶の後、相手が I と名乗るので、 思わず「 I 君か?」と尋ねるが、別人である。大学の派遣医療チームの人らしい。すでに被災地に入っているのだろうか? 現地に着いて、 I 君とコンタクトが取れたら、連絡すると約束して電話を切る。

 富谷ジャンクションから仙台北部道路に入る。いっぺんに眠気が吹き飛ぶ。左側はきゃしゃなガードレール、その下は2、30メートルの崖である。 おまけに片側1車線の対面交通。それなりに交通量もあるので、対向車もある。貸切同然の高速道路の比ではない。 関東の平野部に慣れきったドライバーには試練の行程である。帰りは暗くなる前にここを通過しようと心を決める。

 三陸道に入るとさすがに目的地に近づいた感じがする。所々道路が痛んでいるところもある。けれども走行に支障をきたすほどではない。 石巻に入る手前の高台に休憩所があったが、ここは水はおろかトイレそのものが使用禁止だった。
 石巻に近づくと、対向車線に消防車と救急車の車列が近づいてくる。近くで見おると、明石、姫路、神戸と書かれている。 兵庫県の救急支援チームが帰還するところらしい。全部で20台ほどだった。
 このあたりの三陸道は、遠望すれば、波打っているように見えるが、走っていて段差を感じるようなことは少しもなくスムースである。

 いよいよ石巻で三陸道を降りる。左手に大きなイオンのショッピングセンターの建物がある。出口近くにパトカーが一台止まっていたので、 石巻中学校はどこか尋ねる。「私も群馬から来たばかりなので分かんないんです。この地図も群馬で買ってきたんです」と言いながら、 その地図をくるくる回している。方角も分からないようである。「ちょっと聞いてきます」と言って、もう一人の警官のほうへ走っていく。 帰ってきて言うには、とりあえず右に行ってくださいとのこと。しばらく道なりに行って、また尋ねるよりないようである。
 少し走ってから脇道に入って、後片付けをしている人に、石巻中学校はどこかと尋ねる。今来た道を少し戻って、 左折して石巻駅のほうへ行ってからまた聞くといいとのこと。言われたとおりに車を進めると、方向感覚が分からなくなってきたので、 道脇に車を止めて、自転車の老人に声をかけて、石巻中学校はどこですかと尋ねると、その老人が答える間もなく、すれ違いざまの車から、 職人風の若い男が大声で、そこの角を道なりに上って行けと叫ぶ。それぞれに礼をして角を曲がる。
 と、
 絶壁である。と思えた。思わずギアを落とし、上れるのかなと半信半疑ながら車を進める。途中でまた1度道を聞き坂を上っていくと、 右手の斜面に三列ほどの黒光りする墓石が少しの傷もなく並んでいる。そこをまた進んでいくと林間に墓石がいくつか転倒していて、 その近くで重機が土を掘り起こしている。その先を曲がったところが石巻中学校だった。
 校門らしきところが進入禁止になっていて、人がいたので、石巻市立病院の I 医師はいますかと尋ねると、問い合わせることもなく、 石巻市立病院の人たちは19日に石巻高校に移ったと答える。場所を尋ねると、直ぐ近くのようだ。
 途中の角の駐車スペースで、ブルーシートをたたんだりしている欧米人が数人いた。ここまで来るところで、 ボランティアらしき人の姿をほとんど見なかったのでなぜか新鮮だった。16年前の神戸には4度ほど行ったが、 欧米人のボランティアには自分は出会わなかった。
 石巻高校に行って、構内に車を止め、案内と書かれたところに行って、来意を伝える。直ぐに問い合わせてくれるが、 該当する人は校内にはいないと言う。困った。万事休す、なのだろうか。とりあえず、名前と電話番号をメモにして置いていってくれれば、 分かったら連絡すると言う。しかしながら、ここまで来て、会わずに帰るというわけにはいかない。
傍らから市役所に行ってみてはと助言してくれた人がいる。
 すぐ場所を聞くと、坂を下りていって、駅の近くの5階建てのピンクの建物だと言う。ピンク??どういう趣味だ?と思いつつ、 目立つからいいやと合点して行ってみると、確かにあった。

 津波の末端がこの辺まで来たのか、あたりの道路は泥だらけである。建物をぐるりと回っていくと、守衛さんらしき人がいたので、 どこか駐車できるところはありませんかと尋ねる。すると、緊急指定がありますね、ここから入れます。ぐるっとロータリーを回って来てくださいとのこと。
そこを入っていくと立体駐車場である。ここまで来てようやく納得した。デパートが撤退した後を市役所にしたようだ。
 車を止めて、駐車場の中を歩いていると、人影を見つけたので、石巻市立病院の関係で来たんですが、どちらへ行けばいいでしょう、と尋ねると、 細かい説明もなく、ついてきて下さいと言う。ついて行くと、確かにこれはややこしい。 道順は説明しづらいが、とにかく建物2階の石巻市立病院関係のカウンターにたどり着いた。
 ここは、石巻市立病院に入院していた患者さんの問い合わせ窓口らしい。 早速、来意を伝え、 I 医師がどこにいるか教えて欲しいと頼む。
話を受けた女性が、すぐに、調べるためか中の一室に入ってなかなか出てこない。ぐるりを見回して見ると、大きなロッカーがひとつ倒れたきりになっているほかは、 比較的整っている。壁に亀裂はどこにもなく、明るい雰囲気である。16年前見た、当時新築の神戸市長田区役所ビルに亀裂が入っていたのを思い出す。 カメラを抱えた男と他に数人が、階段近くにいるのが見える。
 さっきの女性がようやく出てくると、「シジョコウ」にいるらしいと言う。「シジョコウ?」と思わず尋ねると、石巻市立女子高校のことだと言い、 さっきの石巻高校の近くだと言う。
 また振り出しか、と思っている気配を察したらしく、「念のために問い合わせてみます」と言って、携帯で学校へ電話をしてくれる。 最近、一般電話も一部つながるようになったのだと言う。案の定、今日は休みを取って自宅にいるはずだということが分かる。 さて、ここでまた困った。彼の自宅を知るものはそこに誰もいない。なんとしても会わずには帰るものかという気持ちが通じたか、 年配の男性を連れてきてくれる。住所は分からないが、マンションの名前はわかると言う。どなたかと尋ねると、 石巻市立病院の事務長だと言う。礼を言って案内を請う。
 早速コピーした地図を持ってきてくれ、道順を説明してくれる。栃木からここまで地図なしで来たと言うと、そこにいるみな驚く。 ところがこの地図が曲者だった。もとあった地図の上に、学校の名前を吹き出し状の紙片に書いて貼り付けたものを、更にコピーした代物だから、 地図上の位置と校名の記入してあるところがことごとく違う。途中、この地図を見せて道を尋ねると、みな首をかしげる。おまけに、 後から分かったことだが、進入すべき道路がそこから入れるとは思えぬ場所だった。
 市役所を出て、川のほうに近づくと町の様相が一変した。市役所に至るまでは建物の損傷はほとんど見受けられなかった。 ところが次第に建物の一階部分がことごとく異様なひしゃげ方をして来る。道路はようやく瓦礫を除けて、 一台分の通行が可能になっているところがいたるところにある。川の向こう、海の方をちらりと遠望すると、何もない。 目をそむけるようにして先を急ぐ。目的のマンション近くまで来たが、入っていく道がどうしても見つからない。 一度は行き過ぎて川向こうに行ってしまい、引き返しても見つからない。 途中、3人連れの警官がいかにも疲れたように連れ立って歩いているのを見る。みな一様にあごが上がっている。 おそらく道を聞いても分からないだろうと思い、尋ねずにやり過ごした。
 そうしてあたりをうろうろしているうちに、突然携帯がなった。 I だと言う。えっ?
そうだ、石巻に入る前に K 氏から聞いてきた電話番号宛に電話したのを思い出した。そのときは通じなかったのだが、 今、折り返し彼のほうから電話をしてくれたのだ。 栃木の内木だと名のると、最初は弟だと思ったらしく、兄のほうだと言うとさらに驚いていた。

 それからさらに道に迷いはしたものの、ようやくマンションに入る道の前に立つ彼の姿を認めて安堵する。
 荷台に積んでいた荷物を一個、彼に渡し、部屋に案内される。今日初めて電気が来たのだと言う。 朝は動いていなかったが、エレベーターも動いていると言っていた。付近はしばらく水浸しだったけれど、ようやく水が引いてきたところだと言う。 トイレは川の水を汲んで流しているのだそうだ。デスクトップパソコンは倒れた拍子に壊れたらしいが、ノートパソコンは使えるようだ。 今日家にいたのは、管理人さんと打ち合わせがあるためだったのだと言い、普段は避難所で生活しているのだと言う。偶然の好都合だった。 ここまで来るに至った経緯の説明代わりに、 K 氏、 T 氏、 S 氏とやり取りしたメールをプリントしたものを彼に渡し、順に読んでもらう。 彼らには後で電話してもらうとして、道すがら、依頼のあった大学の I 氏へ電話するよう電話番号を教える。
 早速、電話をして、石巻の状況を説明している。話の様子では、大学の医療チームはまだ被災地には入ってはいないようである。
 電話が済み、届けた荷物を、「市販薬か、あれば配れるな」と言いながら、彼が開封するのを見ると、出てきたのは、衣類と、 保存食品と、箱のそこのほうに市販薬が少しであった。
 ともかく、これでひとまず用事は果たした。避難所に1泊していかないかと勧められ、大いに心引かれ、疲れてもいたが、翌日は仕事上の決済もあり、 何より、メールで幾人かに報告したくもあり、とって返ることにした。日が落ちる前に例の仙台北部道路を通過したくもあったので、 彼も避難所に戻ると言うので、一緒にそこを出た。彼は歩きである。ぼくの車はポリタンクを満載しているので、そのままそこで別れることにした。 お互い体に気をつけようと言葉を交わして、そこを発った。市内の一部の信号はまだ電気の来ていないところが何箇所かあった。
 帰りの道は、人に尋ねることもなくスムーズである。石巻滞在は3時間あまりだと思うが、多少の土地勘は出来たようである。 石巻滞在中は曇り空で、雨に降られることは一度もなかった。

 東北自動車道に入る頃には日もすっかり暮れてきた。ゆっくり車を走らせていると、疲れとともに、眠気というよりは熟睡しそうになる。 PA や SA には必ず停車しようと思うのだが、暗いため標識を見落とすこともある。
 ふっと、寝入りそうになって、思いっきり頬を叩くが、痛いのは最初だけで、4,5回叩くと痛感が無くなってくる。 さすがにこれはやばいと思い、こぶしで額を叩きながら、次の PA を目指して車を走らせる。
 気が付いたときには、 PA に車を止めて、ハンドルを握ったまま体が硬くなっていた。車を止めるや否や気が遠くなったらしい。 前方を見据えたままの姿勢だったので、寝入ったのとは違うように思われた。外に出て体を動かすと良いと思ったが、 なんとしても体が動かないので、車を出すことにした。

 車を走らせていると思考が戻ってきた。栃木を発って石巻に向かうまでは、被災した I 君は、医師として充分に力を発揮できず、 不遇にあるのだと錯覚していた。
  I 医師 < 大学の医療チーム、こう思っていた。けれどもそれは間違いだった。本当は、
  I 医師 >・・・> 大学の医療チーム、こうだったのだ。
 このことをどう言い表せばいいのかまだ分からない。国見 SA でだろうか、トイレ休憩の後、車に戻ってから、今日半日の石巻滞在のことを 考え続けていた。「額に汗して考える」、まさにそれに値する事柄がそこにはあった。意識を振り絞って考え続けた。
 疲れきってはいたが、眠気はもうなかった。  

 途中2箇所ほど道路工事をしているところがあった。ゆっくり車を走らせて行った。時折、他の車がこの車を追い越していった。 時間が、ある密度を持って集中しているのを感じ続けていた。郡山あたりを通過していたのだろうか?左手に夜景が淡く広がっていて、 それは近くも遠くもない広がりを与えていた。栃木県内にはどこにも立ち寄らずに走りとおした。宇都宮に近づくにつれ雨が降り出してきた。

22日、午前0時ごろ、宇都宮インターを降りると、雨のせいもあり、路面が反射して、急に走りづらくなってきた。燃料計も empty に近づいてきたので、 適当なところに車を止めて、ポリタンク1本分を給油した。雨は降り止まない。
他の車につられて、高速道路を走ってきた以上のスピードを出しがちになる。 もうどこを走っているのか分からないような状態をしばらく続けた後に、ようやく見覚えのある風景が近づいてきた。
 自宅に車を止めて、戻ってきたこと伝える。
午前1時。
 急いでメールをしたためる。帰りの道々考え続けてきたことはまだうまく言葉にはならない。
 メディアの伝えない事柄について、とりわけ、現地の日常的な事柄を伝えるようにつとめ、
あおるような記述は極力控えるようにした。
  T 氏、 S 氏、 K 氏にメールを送った頃には外は明るくなっていた。

(送信したメールの内容)


 昼前に、目が覚めると、銀行に急いで、仕事上の送金を済ませる。
今日から大型車の通行が可能になったことを知る。
 米国人の英語指導助手の遺体が石巻で発見されたとの報道を知る。
 リンク、日本愛した亡き娘に献花
欧米人のボランティアは、この関係だったんだなと気付く。


23日、疲れが取れてから、急に体がよじり切られるようなストレスを感じ、体調を崩す。


24日、今日の午前6時から、一般車両の高速道路通行が可能になったことを報道で知る。
 体調が戻ってくる。がら空き状態の高速道路の現状を人に伝えられないことがストレスの主な原因のひとつだったことを知る。
 大学の県人会の S 氏より現金書留で2万円が届く。ガソリン代などの足しにして欲しいとのこと。 無事が確認できたので県人会としての支援は解消するとのメールが22日の朝にあった。


25日、放射能汚染の話題が急に近辺をにぎわせる。
 薬師寺は、ホウレンソウの産地なので影響は重大である。
水は売っていないですかと尋ねてくる人がいる。ここの水道水は、深いところからの地下水を汲み上げているので心配はない。 むしろ、河川から水道水を引いているところの住民に、ここの水を分けてやってもいいくらいだと伝える。
 大学の医療チームが被災地に発ったことを聞く。


26日、レポートを作成し始める。直接的な印象の影響が出来るだけ鎮まった状態で書き綴ることを心がける。
 昼過ぎ、フランス在住の S 画伯から封書の手紙が届く。差出日付が3月11日である。 レポートに区切りがつき次第、連絡することにする。


27日、なかなか書き進まない。


28日、 S 君からメールある。彼とは最も忌憚なく意見を交換することのできる間柄である。
  I 君の立ち位置について認識を新たにする。つまり、彼は石巻市民であり、石巻の行政職員である。このアドバンテージ、 彼自身も気付いていないけれど、彼を支援することは、そのまま石巻を支援することであり、石巻の被災者を支援することである。
県人会の人々が彼の無事を確認した段階で安心して支援から手を引いてしまったときに感じた疑問の根拠がはっきりとする。 これを指摘できるまでに1週間かかった。
 この間ぼくはずっと苦悶していた。何か人に無理を強いているのではないかと。けれどもそうではないことがはっきりした。


29日、専業農家の N 氏が道路わきの畑で作付けしているので声をかける。彼は、以前、地元の農協の組合長をしていたことがある。 ホウレンソウなどの野菜の状況について言葉を交わす。先々のことは何にも分からないけれど、 農家は何もしないではいられないから植え付けしているんだと言う。お互い頑張ろうと声をかけて別れる。
 彼と別れてから、何を植え付けしてしていたのか聞かなかったが、苗の形からしてトウモロコシだったんじゃないかと思う。

 夜、弟から電話があり、 I 君の奥さんとお母さんが、お礼に弟のところに来訪してくれたと言ってくる。  こちらへ先に来たのだが、不在だったため弟のほうへ出向いたとのこと。


31日、レポートの Web ページがほぼまとまる。
 夜、フランス在住の S 画伯宛に Fax でこちらの状況を送信する。彼は純農村時代の薬師寺の思い出を大切にしているので、 今回の震災と、その後の放射能汚染については心を痛めているのではないかと思う。


4月4日、前回の石巻行きで感じた問題点の分析に時日を費やしたが、次のステップへ進むことにする。


4月5日、震災から25日目にして、ようやく自分のところの片付けに取り掛かる。そういえば、ここも被災地なのだとあらためて気付く。 隣町の中学校の体育館では、天井が崩れ、23人が負傷し、内1名が重傷を負ったと聞く。けれども、今回の被災は、ともかく津波に尽きる。 今も進行中の原発の危機も、この夏、予測される計画停電という名の大規模な停電も、もとはと言えば、津波から始まったことなのだから。


4月7日、昨日手配した支援物資が、明日入荷するとの連絡が早朝にあった。
 午後、宅配便のドライバーに会った際、彼に聞いたところ、被災地のかなりのところが配達可能になっているとのこと。 今回の被災地行きのポイントをこの辺に置こうと思う。


 4月8日、昨夜、余震としては最大級の地震があり、現地では、停電や道路の一部が通行止になった。
 昼、 I 君の携帯に電話をすると、昨日ちょうど一時帰宅して家にいるとのこと。
 「良かったね、地震に会わなくって」と言うと、
「いや、こういう時、その場にいないというのは・・・」とつぶやく。
 なるほど。

 昼過ぎ、病院の調理部に、注文について問い合わせに行った。すると、これまでのスタッフが入れ替わっていた。 そっくり元受が変わったらしい。うちは納入先から外されたということだ。こういう時、普通なら落胆するのだろうが、 真っ先に思ったのは、これまで以上に支援活動に専念できるという感慨だった。
 実際、3年前から10ヶ国語を勉強しているが、これまで外国に出る時間的余裕はまったくなかったし、 先日、石巻に行った際も、仕事に迷惑かけては・・・という気がかりが当然のことながらあったからだ。


 4月10日、昼、投票。朝、町内会の班長さんが寄って行ったと実家の父が言う。昨夜、班内での集まりがあったらしい。 午後、班長さん宅を訪ね、これから留守勝ちになるかもしれないと伝え、班内の方々によろしくと伝える。
 夕方、 I 君の一期上の T さんが訪れる。県外の医療機関から自宅に戻って、メールをチェックしてはじめて気が付いたのだという。 カンパを置いていかれる。


 4月11日、午前中、病院前の交差点近くで事故があった。街路樹に激突して横転し、大破。運転手は病院に運び込まれたようである。 完全な自爆事故、見物人は居眠りだろうかというが、付近の距離感から行って居眠りは考えにくい。 床に落ちたものを拾おうとしてハンドルを切り損ねでもしたか?ブレーキの跡は見られない。

 昼過ぎ、 K 市の市役所を訪ねる。昨夜、 I 君と電話で話をした際、住民票は K 市に置いてあると言う。
 それなら、「 K 市の市民が被災し、被災地で頑張っている。 K 市に対し、地域ぐるみで支援をしていただけるよう呼びかけてはどうだろう」と言うと、
 そういうのは苦手だと言って怒る。それに、行政はそんなの相手にしないと。
確かに、 I 君は声高に救援を求めるようなタイプではない。 けれども、私としては、『地域が地域を支援する』という形が今後不可欠だと思うし、そして、それは支援する側の地域にとって、 人と人との関係が希薄になっているこの時代において、はかり知れない恩恵をもたらすことにつながると確信しているので、 K 市の市役所を訪ねたのである。
 窓口で来意を伝えると、総務課のほうに案内される。そこで応対に出た若い職員に、
 ≪被災地支援と夏の停電対策のための仮想地域モデルの提案≫
の内容を口頭で伝える。
 「市としては、これから品物を集めて送ることを考えている。そのほかは予定にない」、それだけである。
 「これから」か・・・、長丁場だから、そのくらい暢気な所があってもまあいいか、とは思う。 用向きとしては、 I 君の言ったとおりである。だが、私は陳情に来たのではない。 先々困るのは K 市のほうなのだ。

 先に挙げた、「仮想地域モデル」とは、とりもなおさず、「 K 市モデル」のことだ。 「被災地と支援する側の地域を結ぶキーパーソンの存在。」というのは、 言うまでもなく、 I 君である。
 私が、地元の S 市で頑張ればいいのではないか?もちろん頑張っている。けれども私は被災者ではない。 決定的に I 君と異なるのはそこのところなのだ。また、 I 君が被災して、ほうほうの態で帰還しただけなら、 「大変だったね」と慰労して、そこまでである。

 今、この国が置かれている困難は、狭い意味での被災地だけの問題ではない。

 このことに、先の若い職員が思い至らなかったとしても不思議ではない。 さしあたり無駄足であったが、こういう無駄足を私は少しも苦にしない。

 午後、また大きい地震があり、高速道路が通行止めになった。


 4月12日、明日の被災地入りの準備をする。
 今回は、何日か被災地を回って、小さな避難所や集落を訪ね、 そこの住所や代表者の連絡先を教えていただき、了解を得たところを、ここに掲載するつもりである。 宅配便がほぼ回復しているので、支援者が被災者と直接連絡を取って、その時点で本当に必要なものを送れるように、と思うのである。 それと同時に、単に物だけではない、人と人とのつながりのきっかけができればと思う。
 必要があれば、アクセス制限をかけてもいいかも知れない。

  Y さんがカーナビを貸してくれると言う。シガレット・ライターのソケットから電源が取れる道具があるか尋ねた際に言ってくれた。 デジカメある?と聞くと、「2台あるけど、2台とも福島なんだ」と言う。原発の10km圏内である。
 夕方、ショップで特価品のデジカメを1台購入。
 毛布や寝袋を積み込む。予備の軽油のポリタンクは、いったん積み込んではみたが、やめた。 今回は、車中泊をするつもりなので、石油臭いのは願い下げなのである。

 ひと段落してから、Web サイトの更新をする。準備はまだ終わってはいない。




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