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西暦2011年、平成23年3月11日に、東北地方太平洋沖で、大規模地震が発生しました。 そのときから今に至るまでの経過と行動を振り返って、これからからどうするかを突き詰めて考えてみました。 基本的な考え方は、被災者が生活を再建しようとするとき、食い扶持を稼ぐための雇用が確保されている社会を維持していくためには どうしたらよいのかというところにあります。 |
防災センターの二階の避難室の壁に次のようなメッセージが貼ってありました。 (画像、大きくなります) |
![]() これを見ますと、ご遺族の中でも保存を強く願われる方もいるようです。 |
9月9日・10日と下北、青森、津軽を回って帰宅しました。 |
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9月15日。 今日から池袋駅西口の街頭に立つことにしました。10月まで時間はない。まずは行動しよう。行動しながら積み上げて行こうと思ったのです。 活動の記録として、声をかけてくれた方にお願いして撮影していただきました。 |
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9月16日。 台風通過直後で、雨は降っていないものの、風は強く、誰も声をかける人はありませんでした。 |
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9月17日。 出てくるのが遅くなり、今日は9時まで立っていて、あとは野宿の予定です。 夕雲がきれいです。4枚目の写真は自治医科大学の遠景です。 |
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宗教勧誘の方が声をかけてきました。 その方々が去ると、路上ライブが始まりました。今夜はいろいろありそうです。 1曲終わったところでなぜか救急車が到着。 |
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宿を決めて、早速読書タイム。 大部のロベルト・ボラーニョ作「2666」もいよいよ読了間近です。 |
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今夜最大のミステリー。 公園の歩道脇のブロックに、靴とタバコと千円札が揃えて並べられています。 |
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実は、と言ってもなおかつミステリアスなのですが、落ち着いて本を読み始めて間もなく、自転車に乗った警官二人が近くの道路わきに自転車を止めました。
誰何されるのかな、と思っていると、そのうちひどく痩せて年老いた老人を連れてきて、2m脇くらいのところに置いていきました。
お金に気を付けるように、などと言って置き去りにしていったのです。。 |
9月18日。 活動開始。真ん中の写真は昨夜不審物が並んでいた場所です。 |
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人馴れした都会のスズメは足元まで寄ってきます。 この子、右足が利かないようですが、左足一本で元気に駆けずり回っています。 |
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午前十時まで立ちましたが、今朝はコンタクトなし。 電車ごっこで横断歩道を横切る子たち。そのあと立教の図書館へ。まだ夏休みとあって深閑としています。 |
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いったん帰宅し、それから野宿野郎の野宿の日の野宿に参加しました。 野宿野郎 |
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9月19日。 野宿の日の一夜は、思いもかけず、アットホームな一夜でした。これも主催者のかとうちあきさんの人柄のたまものでしょう。 自分の普段のロンリーな野宿とは比べようもありません。折しも最高の好天に恵まれ、風もなく、冷え込みもなく、雲一つない晴天で、 素晴らしい夜明けを迎えました。かとうさん、ほかの皆さん方、ありがとうございました。 さて、今夜は十五夜です。 |
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午前中、駅前に立ち、午後、用事があるため帰宅し、用事をかたずけ、 晩には、観月です。 |
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9月20日。 今日からお彼岸です。お墓参りを果たし、いろいろ用事をかたずけた後、自転車を携えて、出発です。 用事が込んでいて、出発が遅くなりました。 |
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9月21日。 今日も晴天です。目覚めると、三日前の片足の悪いスズメが迎えてくれました。 覚えてくれていたのかなあ? |
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ピーナッツ一粒あげると、大きすぎるのか持て余しています。 |
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そこで砕いてあげようとすると、指先から直接食べられてしまいました。ここまでとは・・・ そっと撫でてあげようとすると、数cmの距離でかわされます。他の雀たちは数10cm以内には近づいてこないというのに・・・ |
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犬を連れて散歩する人が通りかかります。すると一匹の野良猫が、その犬にすり寄っていき、仲良く連れ立って歩いていきます。 |
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今日から夏休みもあけて、立教大学のラテンアメリカ研究所の授業が始まります。まずは午前中のたちんぼう。 |
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夕方も誰もコンタクトはありませんでした。でも、あのスズメのおかげで一日中気分はホクホクです。 |
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9月22日。 彼岸中の日曜日。自宅で用事が重なり、出てくるのが遅くなりました。 この後午前3時過ぎまで文案を練っていました。 |
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9月23日。 薄曇り。明け方、月が西の空に溶け込んでいきます。 そしてびっくり、スペシャルゲストの登場です。 |
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このあと立教大学の図書館に向かうと、いきなり8月に遠野まごころネットでいっしょだった、Youth のメンバーの T 君(立教大生)にばったり出くわしました。 午前中、文案を整理して、街頭に立ったのは昼過ぎです。 今日は彼岸の中日、墓参りのため栃木に戻り、再度出直しです。 |
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栃木の家を出るのが遅かったため、街頭に立つのもこんな時間です。少し小雨が降っています。 池袋⇒栃木、栃木⇒池袋。一日のうちにこのパターンは初めてです。逆はいつものことなのですが。 |
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9月24日。 一晩中、小雨が降り続いていました。明け方近く、シュラフを通して滲みてくる雨の感触で目が覚めてしまいました。ずぶぬれ寸前です。 まだ早いので、雨宿りできる場所を探します。 |
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昨日のスズメは今日も来ましたが、スペシャルゲストとはタイミングが合わず、昨日の奇跡の再現はなりませんでした。 心なしかこれまでより距離感があります。 雨はようやく上がってきましたが、何もかもまだ濡れています。 |
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図書館へ向かう前に、街頭へ。 |
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図書館での作業が終わって、明日、栃木の地元で用事があるためこれから帰宅。その前に、街頭へ。 |
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9月25日。 本日、朝一で胃カメラの検査を受けました。年齢にしてはきれいな胃だと言われて一安心。 今回の検査は、7月に受けた集団検診のレントゲン検査の結果、要精検と指摘されてのものです。 実は、レントゲン検査の際、昨夜の食べ物が残っていると言われて、これは引っかかるなと思っていたので、その通りでした。 次回の集団検診の際は、夜食はしないでおこうと肝に銘じました。 |
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内視鏡検査のために、前日の午後7時から今日の午後3時まで何も食べないでいたのでバテてしまい、街頭に出るのがこんな時間になってしまいました。 |
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今夜の夜食。これ+お酒。出て来る際、栃木は雨だったので、こちらも雨だとてっきり思い込んでいたのですが、雨はすっかり上がっていて、しかも冷え込みもないので今夜は楽です。 |
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9月26日。 今朝は久しぶりにスズメとご対面。ちょうどスペシャルゲストが来て帰って行った数分後でした。 立教の食堂と図書館が開くまで街頭へ。 |
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台風も過ぎて、昼過ぎから冷えてきました。昨夜は東京も雨だと思って寝袋を持って来なかったので、この気温では寝袋なしの野宿の連泊は無理です。 疲れも溜まっており、街頭に立った後、素直に帰ることにします。 |
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9月27日。 自宅で用事もあり、池袋に着いたのはこんな時間です。 週末の祭りの櫓が立っていました。 |
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と思う間もなく、救急車が到着。救急隊員数名が担架を持って地下街に降りていき、かなり時間がたってから別の出入り口から救出して行きました。 |
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本日はここまで。 |
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9月28日。 久しぶりにスズメと戯れています。 スペシャルゲストが帰った後でした。またすれ違い。 |
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朝はまず街頭へ。 本日は、ラテンアメリカ研究所の授業がある日です。 |
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帰りにまた街頭へ。 この日、家に帰ってから急な展開がありました。 |
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夜半、岩手の寺澤様からお電話をいただきました。前日に、これまでの活動と、これからどうしたらよいか、行き詰っていることも含めて手紙で正直にお伝えしました。 それの返事でした。防災センターの二階に貼り紙をしてからのいきさつと、現在の状況とをお話ししてくださいました。 表だって取り壊しの反対を訴えていたのは、寺澤様のご家族だけだったそうです。 事ここに及んで為すすべもないことを深い嘆きとともにおっしゃってくださいました。 |
9月29日。 このところ自宅での用事も増えてきて、ここに来るのもこんな時間になってしまいます。 ここに記載しない展開の中で、やり終えた、という達成感も感じています。 スタートした時とは全く違う展開ですが、ここまで来ることが出来るんだ、というのが正直な実感です。 |
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今日は豊島区の区民祭。 祭りの後片付けの光景です。 |
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祭りの後片付けで大型トラックが乗り入れているところへ、路上ライブが重なり、今夜の駅前は雑然とした雰囲気です。 駅のシャッターが下りるまでいることになってしまいました。 |
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さらにいつもの定位置が直ぐには確保できず、今夜は苦戦続きです。 最近の都会の公園は、なにか都会の底意地の悪さを感じさせられるような作りになっています。 |
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9月30日。 目が覚めると、朝からこんな光景が。どれほどの癒しだったことか。感謝しきれません。 とうとう目標とした月末の最終日に到りました。外部的な状況は微動だにしていませんが、私自身にとっては、長足の進歩、という以上の劇的進展でした。 23日以来のツーショット。 |
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最後の記念撮影。 |
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朝はまず街頭へ。 |
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朝食です。 おにぎりにカレーうどん。冷奴に納豆。それに、ブルーベリーチョコが2個とレモンジュース&ヨーグルト(マイブーム)、そしてお茶です。 手抜きしません。が、ちょっと野菜不足。そこのところは自宅でどっさり野菜を取って来ています。 |
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食卓の光景。 閑静です。 惜しむらくは、もう少し眠り足りていればいいのですが、このひと時の充実は貴重です。 |
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帰り際、最後の街頭行動です。最後まで誰とのコンタクトもなく、終わりました。 |
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今回の行動で、唯一目立った成果は、大船渡の寺澤様とお話しできたことでした。 寺澤様の悲嘆をただただ拝聴するだけの時間でしたが、ここまで行動して来なければたどり着けなかった地点として、 これまでして来た震災以来のすべての活動の、それは頂点にあるのだとひしひしと感じています。 何一つ具体的な、これをくい止めることが出来た、というような成果は上げられませんでした。 ここに記載しえなかった部分の状況については、著しく認識の進展はあったのですが、ここでの言及は控えます。 一方、プライベートでは、片足のスズメと彼女のおかげで素晴らしく充実した日々を送ることが出来ました。 野宿野郎の野宿の日も、素敵なイベントでした。 何一つなしえなかったのに、こんなに充実して、満ち足りていいものかと不思議になるくらいの感慨に包まれています。 徒労感もなければ、感じていいはずの疲労すらありません。 お亡くなりになられた方々の御霊に突き動かされて、あるいは導かれてここまで来た、と承知しております。 だとしたら、今それらの御霊は安らぎの裡にあるのでしょうか。 魂は行いの裡に現れる。 今回の活動を通して培った認識です。無念の相はまた平安の姿でもあるのだと。 |
10月3日。 大船渡の寺澤様からお手紙をいただきました。(郵便受けの投入口のところに挟まっていたので、届いたのは昨日かもしれません) 為すすべはないけれども、気持ちは8月12日に抗議文を書いた時のままだとありました。 さしあたり、どうしたらいいのか思いつかないのですが、まだ終わってはいない、という思いが切にします。 何ができるのだろうか、それを考えています。 とりあえず、活動の再開です。 |
10月5日。 今朝は土砂降りの雨、野宿は無理なので、始発列車で出てきました。 早速スズメとご対面。元気そうで安心しました。小雀が二羽寄ってきました。 雨なので街頭は人気もなく閑散としています。 |
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夜、街頭に出たら、ラテ研(立教大学ラテンアメリカ研究所)の受講生の仲間と会いました。 |
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今日はここまで。小糠雨がずっと降りやみませんでした。 |
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10月6日。 夜通し小雨が続いていましたが、朝にはやっと上がりました。 スズメたちと戯れています。 |
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満腹になったら、フンをして立ち去りました。(白いのがフン) |
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朝の街頭。今日はこれで帰宅しました。 |
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ここでひとまず、整理しようと思います。 釜石市鵜住居地区防災センターとは、いったい何なのか。そこのところがポイントです。 2011年3月11日の震災では多数の犠牲者を出した場所です。 海に近い平坦な場所に立地した二階建ての大きな建物ですが、そこを避難所とするには無理があることは、外部の人間でもすぐに分かります。 にもかかわらず、昭和三陸地震の起きた日を教訓にして3月3日に行われた避難訓練では、この防災センターが避難所代わりに使用されました。 また、防災センター2階のホールも、「避難室(ホール)」と表示されています。 自然の災害という以上の人為的な問題があったことは明らかです。それも危機の際してのとっさの判断という以上のものです。 この夏、秋には取り壊されるというので、8月20日以降何度かそこを訪れました。言いようのない思いに包まれました。 かいつまんで言えば、人間の行為の矛盾と自然の猛威が交錯したところに、この世の深淵がぽっかり口を開いたような場所、と私は把握しています。 深淵と呼ぶのは、いわく言い難く形容しがたいからだけではなく、そこが見る人訪れる人にとって、それぞれ全く別様に映り、受け取られるからです。 そこは、こう言ってよければ、鏡のような場所です。それもうわべではなく、心の奥底を照らす鏡です。 このような場所を私は他に知りません。 文学や映画、フィクションの世界では見聞きします。ですが、現実の世界ではほかに類を見ません。 ただ単に多くの人が犠牲になった場所というだけではそうした深淵が顔をのぞかせることは決してありません。 近くに住み、家族をそこで亡くされた方にとってはそこは悪夢以外の場所ではないでしょう。 遠くに住み、そこで身内を亡くされた方にとっては、そこだけが身内の人を偲ぶ場所となるでしょう。 私のように震災遺構の追悼で立ち寄ったものにとっては、なにか尊いもの、普段は触れえぬものに触れた思いがします。 今回、ともに訪れた若い方々の様子を見ていると、深く啓発され、短期間で著しく成長したのに感動を覚えるほどでした。 それは単に防災教育という以上の力、その若者の潜在的な姿を目覚めさせ、掻き立て、強く促していく力だと感じました。 9月8日に岩手でのボランティア活動を終え、9日10日と東北を旅して帰ってからこの方ずっと、震災遺構の保存の活動を続けています。 一番念頭に置いているのは、この釜石市鵜住居地区防災センターのことです。 これこれこうだからこうする、こうしている、こうしてほしい。そのように単純に言える問題では残念ながらありません。 最初のきっかけは、9月10日、青森から秋田にかけて五能線をリゾートしらかみという列車で旅をしているとき、ふと思いついた考えからでした。 ドーム状の構築物で震災遺構を包んで残すのなら、「二度と見たくない、壊してしまえ」という意見と、「壊さないで、残してほしい」という意見とのあいだに 接点が見つけられるのではないかと気づいたところからでした。 そしてそれはご遺族のばかりではなく、亡くなられた方々の御霊にかなうのではないだろうかと思い至ったからです。 そうして今に至っています。 分かり切っていると思うことでもあえて言葉にしていこうと思います。 二重の喪失を予測することが出来ます。 二年半前の悲劇と、それを偲び追悼する場所の喪失とです。 それは、いま取り壊しに賛成なさっている方々においても同じです。 釜石市に魂のこもった追悼施設を作ることが出来るでしょうか。 魂がこもっていなければそれをなんと言うべきでしょうか。 すでに今でも防災センターの傍らに「釜石市 追悼施設」というのが作られています。けれども、私の知る限り、そこに香を手向ける人はいませんでした。 ![]() それも当然のことです。 津波が押し寄せてくるど真ん中に避難する大勢の人々を集めたのは釜石市だからです。 ここで起こった悲劇は、ただ単に自然の大災害というのみならず、行政の間違った判断の積み重ねによる人災という側面を否定することはできないからです。 ここまで検討してきてみて、管理者が釜石市である限り、残すという選択肢はあり得ないなと感じています。 |
10月9日。 3日ぶりに街頭に立っています。記録を取ろうと思ったら、デジカメのバッテリーがなくなっていました。 日本海側を抜けていった台風の影響で9月初めのような陽気です。 9月中には感じていなかった重苦しさを感じています。 1ヶ月前、下北に旅する前のような感じです。 慰霊と鎮魂、ことは魂の問題です。 特定の宗教的な立場に立たず、かと言って、魂の問題を避けることもなく取り組んでいこうと思っています。 |
10月10日。 |
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